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あなたは完璧主義?

David Lee
その昔の私は完璧(のつもり)主義でした。


私だけでなく、完璧をめざすものは皆コントロールフリークなんですね。


自分が身の回りに起こることは全て把握しておかねばならないし、想定内でなければならない。

だけどだんだんと歳をとるにつれ、コントロールしてるつもりが井の中の蛙サイズであることや、自分自身が完璧と対極にある人間であることがわかってくる。

そうするとだんだんと力の抜き加減がわかってくるんだよね。

だけど完璧を目指すこと自体を否定しているわけではなく、むしろ「完璧とは誰なのか?何なのか?」を知ることの重要さと、だけど完璧にはなれないことの二つを同時に理解することって大事じゃないかと思うのです。

天才とよばれるイチローだって3割そこそこしか打てないのだから「完璧」とはほど遠いわけだけど、イチローが目指す「完璧」があり、その領域にすら簡単に到達できないのが普通の人間(といってもイチローの場合周りはプロの連中)なんですね。

銀座マル漢の斉藤一人さんが著書の中でこのようなことをいわれている

「限りなく完璧を目指すけど、完璧にはなれない。だからこそ、退屈しなくて済む。
人生は楽しいのです。不完全主義っていいでしょう。完璧ではない同士、何とか完璧に近ずこうとして
生きる。これで十分なんです。「お互いがんばってるね」と言えたらハッピーです。」

そう思うと人にも期待しないで済むようになるし、自分をそんなにも追い詰めなくなってくると思いませんか?そもそもこの世は「不完全な人間」の集まりなので、毎日が驚きの事件の連続なんですね。

ただ人間として単に生きるだけでも、「完璧」を見上げていきられるのか、見上げるものがないのかはその人の人生に大きな違いを生むといえると思います。いわば目標のある人生と、到達地点がわからない人生の違いです。

わたしの場合幸いにジーザスという「完璧な人」の頂点であるモデルがいます。

私を良く知る人は、「お前よくもまあそんなこといえるね」と思うほどにパーソナリティはジーザスのかけらもありませんが、しかし私にはジーザスを知っていることだけでもすごい「安心感」があります。

これを永遠の命を得るともいうことができますが、むしろ私にとっては本当の本物を知っているという安心感が自分と言う不完全な人間でもつながって生きられるのだという得をした気持ちがあるのです。

だけどただしがみついているのだけではありません。目標は太陽より遠いはるかかなたですが、それでもジーザスを見上げて、モデルとして生きる意味は何事にも代えられないほどの尊さがあります。

永遠に「完璧」になれない人間は、まず「完璧」を知ること、そして「あなたご自身」と「完璧な存在」との距離を測ることから始められてはいかがでしょうか?

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